昭和四十八年十一月二日 朝の御理解
X御理解 第六十五節 「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいの           が、よい家相じゃ。よい日柄というのは、空に雲のない、ほ           んぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いか           に暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は           不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日           に良い悪いはないと思え。」
 何の心にかかる事もない、日々、心にかかる。そういう日々を過ごさせて頂けるのに自分で勝手にいろいろと、心にかかるとか、引っかかるというような、いわば窮屈な日々を自分からそうしておる人間に、いわゆるその様子をご覧になって神様は、ほんにわからん事とは言いながらとお嘆きなるだろうとこう思います。
 段々信心させて頂きますと、もう日々が有難いというおかげ、すべてが有難いという。例えば使い勝手の良いのが、良い家相じゃとおっしゃるが、使い勝手が例えば、悪かろうが有難いと。御礼を言う心でおかげを頂ければそれがそのままおかげなんである。
 人間が幸福を願うあまりに、日柄とか方位とか、見よってでも幸せになろうとするまあ人間のあがきのようなものだと思うですね。
 人間が幸せになるのは、自分の心次第である。しかもその心がすべてどのような場合でも有難い、有難いと、有難い方へコロコロと自分の心を使うて行けれる。コロコロと転がして行けれる、有難い方へ、有難い方へと、使うて行けれる生き方を、教祖様御自身が体験されて、天地の親神様の心を、それこそ心憎いまでに受けそして現された。教祖の場合はその日々が、天赦日としての神様に許されたおかげの日々を、御自身体験されて、それを私共にこのように教えておられるのであります。
 例えば、風雨が強うては、天赦日じゃと言うても、風雨の日が悪いとおっしゃるのではないのですね。例えば風雨でも、やはり有難いとして受けていく。本当にそれこそ高いところから低いところへ、それこそ水が流れるように、何の障りもなく、さっとこう、そういうおかげを頂かしてもらう時に、おかげも自由自在にと申しましょうかね、おかげの受けられる世界を、私共は現して行かねばならぬ。
 如何に、自分の心の使い方が、いうなら、自由自在に有難い方へ、有難い方へと使うていかなければならぬ。ところが実際はなかなかそうはいかんのですね。
 そういう心を、自由自在な使い方というか、有難い有難いと使うて行けれる。行けないというのは結局は自分本位だからであると思うです。
 相手の事などは全然考えない。自分だけを中心にした考え方。自分の都合の良い日が善い日柄じゃというと如何にも、例えば今日は外出をしようと思うておるのに、寒かったり暑かったり、又は雨が降ったり、風が吹いたりする。
 そうすると、それは自分に都合のよくない日だと、いうようなふうに、ここでは聞いてますけど、そうではないですね。自分の心次第で、自分に最高の善い日だという頂き方。出ようと思いよったら丁度降りだした。それを困った日だとせずにです、ああ神様今日もおかげで修行させて頂きますというような頂き方。
 今日はほんと外出するのに長靴を履いて出らにゃならん。雨具を着て出らにゃならん。もう今日はおかげで雨具の有難さがわかりました。今日は長靴の有難さがわかりましたというような頂き方なんです。
 だからいつもが有難いんです。いつもが修行、そういうね、そういう心の状態が、助かっておるという事なんです。私共はどうでも助からなければならない。
 これが人間関係の場合であってもそうです。自分というものが、只、中心で考えておるとです、自分の思うようにならんと、それを責めようごとあったり、不平不足を感じたりするようになる。その人、それぞれの性格ですからね。
      ※      ※      ※      ※      ※ 私、昨日、丁度高橋さんの奥さんから電話がかかってきて、一番上の佐多美さんが発熱しておるからよろしくお願いしますと、電話がかかってきた。
 それが電話がかかってここへお届けさして頂いたら、すぐ後にお母さんが参ってみえた。おばあちゃんが。ああ、今何か佐多美ちゃんが熱かなんかあって、具合が悪いそうですねと、風邪具合が悪いようでした。
 今日は大体、久留米の寿司勝さんと二人で参った見えとりました。今日は帰られないはずじゃったらしいけども、私が御神米を下げたから、まあ今日は帰らりゃいかんですねというて、御神米を頂いて帰られました。
 そういうお取次をさして頂いた時でしたけれども、私はこの前の御大祭に、お母さんもお参りになっとると思うとった。それでもう、今度孫であるところの佐多美さんと、義郎さんところの娘達が二人で相舞いを致しました。それがもう実にそのよく出来ておりましたから、私はもうおばあちゃん見とるもんと思うとった。
 もう今度の御大祭のあの舞が、もう本当に素晴らしい出来だった。前の晩、見てくれというから、見た時には、ああこれは初めてじゃけんこれはまあ、いっちゃん私としては気にいらないけれども、まあ初めての事だから、まあこの位のものだろうとこう思うとった。
 ところが実際、本番になって蓋を開けてみたところが、どうして、どうしてもう本当に私、あちらから見せて頂いておって、あまりにすばらしく出来たのは、相舞いというのは一人だけ上手に舞ってもいけん。二人がきちっと合わなければけいん。それが、本当に上手に見事におかげを頂いておったなあと、あ母さんの郁枝、おかげ頂いて、それこそ涙ながらに眺めておる、見る程しに素晴らしかった。
 だから、おばあちゃんが見ておると思うとるもんだから、本当にすばらしかった。 ところが私は、その日に何かの用事でお祭りにお参りが出来なかった。舞の稽古をしよるという事は聞いとったが、まあ郁枝さんじゃろうか、それならそのごと、まあおばあちゃん今日の、佐多美達の舞が素晴らしかったよと、おばあちゃんに一目見せたかったよと、どうして言うてくれんじゃったじゃろうかと、あただに腹の立つたふうで、あんまり良かちゅうもんじゃけん。
 そして私もだから申しました。ほんな事ですね、おばあちゃん、今日の御大祭は感激でした。もう子供達の舞を見てから本当に、おばあちゃんに一目見せたかったと、普通なら大体いうところだろうけども、それが言えないとか、又は言わなかったところにです、いうなら、それを私が話したものですから、聞いてから、あただに腹が立ったごたるふうだから、もう私は嫁の悪口は決して言うた事はなかばってん、ここだけは嫁の欠点で、第一、家の嫁はものを言おうごとないというとですから、店の者にでも同じ事です。定利に対してもそうです。
 親の私に対してでもそうです。とても普通なら言わん事はないだろうけれどもと言うて、いうて腹を立てられるですよ。
 私は親先生ここへ来てから郁枝さんの悪口だんもう言うた事はない。けれども今日はそういうふうに私の方の嫁は物を言いませんとこう言うのです。
 けれどもこれはね、おしゃべりしすぎる嫁もおれば、言いたいけれども言わん嫁も居るとだから、そういう例えば人間関係の事であっても、自分を中心に、お母さんはどっちかというともう、如才のない、いわゆる商売人です。
 奥さんは全然商売気のない方だったんですから、しかもああいう水商売ですから、しかもああいう沢山の人を使いまわして、もう高橋さんの居られん後を一人で切りまわしていかんならんのだから、それだけでも大変な事です。
 難儀な事だろうと思うです、郁枝さんにしては。言いたいものでもいわにゃならんそりけというて、お宅の嫁さんは決して悪人じゃないですもんね。只、物いわんだけで、いうなら利口気がないだけで。
 そうですたい。もう悪か人間じゃなかばってん、ここで一言いえば店全体が円満に行く事でん、それを言わんから問題が問題になってくるという意味の事を言うとられましたけれども、結局、自分が言えれるから、自分が出来るから、人まで出来ん事を言えない事を、例えばいつも心の中に難儀を感じておる。
 いつも心で責めておるというような事ではです、自分に都合の良い日が善い日柄じゃというような事にならないのです。
 勿論、自分に都合の良い日柄というのは、自分の都合で良い、思う通りになってくれるという事ではないのです。
 自分の心次第で、自分の思うようにしていくという事です。もう本当、家の嫁が、物も言いきりまっせんから横に居ってから、可愛そうなごと思いますというふうな意味でも、言い方でも出来るわけでしょう。それを一つの情も以て、それを見てやったり聞いてやったりする事も出来るけれども、私共は自分を中心にして、いつも考えておりますとです、嫁の足りないところが、いつも自分の心の中に問題になっておる。 成程お天気の良い日ばっかりありゃ、よい日という事になるかもしれませんけれども、信心さして頂く者は、それをよし、雨風の日であっても、おかげで修行が出来ますというような、頂き方をする事がです、もう毎日、毎日が天赦日、いうなら神様に許されての日々であるいう事になるのです。
      ※      ※      ※      ※      ※ それは本当にですね、これは私の家内の場合でもそうです、物を言いきらんという事を、自分で人のごと都合よう言いきらんという事が、自分でも非常に苦にしているのですよやっぱり。だからそれを、むしろこう、カバ-して、なら私としては、カバ-してやる。例えば、私だけでなくて、家内を椛目の妹であってもそうです、妹は、私は、あんたがこと、おしゃべりするごたる嫁御なら、私しゃどんこんでけんけれども、この人は言いきらん位で丁度よかとこの頃はなした事でしたけれども、もう家内がいつも、例えば、家内が言わにゃんところは一緒に居る時にです、言わにゃんところは妹が言うてくれる。それをむごうカバ-してくれる。そういう生き方を求めて行く信心にならにゃいけん。日々の生活が。
      ※      ※      ※      ※      ※ 皆さんが昨日、皆さんの場合でも同じですけど、昨日、月次祭がすんでから、松栄会の方達と黄楊会の方達が、私の部屋に皆やって来て、今度の黄楊会と松栄会が信心実習をどこかで一泊で、信心実習会をする。それで昨日、どうさして頂いたらよかろうかと言うて、昨日義郎さんからお届けがあっとりましたから、どうしたらよかろうかと言う事じゃなくて、皆話合ってね、それに賛成するのが多かったらお願いをしたらどうだろうか。そして若い者と一緒に行かんというような雰囲気があったり、又は何がいろんな都合があるようではいけん。
 それは一遍位、松栄会が合同で、信心実習するのもうよかろうと。よいようになるならばこういうふうにお願いさして頂いたらどうかというとりましたから、昨日その話合いをしたところが、どうでも一緒にやりたいと申しますから、お許しが頂けるでしょうかとこういう。
 それはなら、今日からでしょう、お繰り合わせ頂けれるようにお願いしましょう。 そこに許されて信心実習会をさしてもらう。安心して行けるわけです。私はそういうような事が天赦日、金光教の御信心さして頂く者は、物一つ買わせて頂くでも、こういう着物を買わけて頂こうと思いますがとお伺いさして頂いて、そんならお繰り合わせをお願いしときましょうと言うてお取次を頂いて、買わせて頂くところに、心にひっかかるところがない。
 全然親先生にお届けせんなりに買うとったら、心にひっかかる。だからそういう、例えばいつも許されて物を使わしてもらう。許されて買わせてもらう。許されてどこどこにやらしてもらう。だからひっかかりのないおかげを頂く為に、お道ではお取次を頂くというのです。
 ですからすべての事がです、心にかかるような事であっても、いろんな問題が起こったり、いうなら難儀な事になってくる。ようはひっかかる心がいけない。
 それで金光様の信心さして頂く物はお取次を頂いて、日々すべてが許されて、いうなら、天赦日的な日々、それは【】の事でけない、買い物一つの上に於いてもです、お取次を頂いて許されて今日がある。
 許されてそれを買わせて頂いたというような、頂いた事になるから心が安らぎ安心のおかげを頂く事が出来る。
 いわゆる本当いうたらもう、日々が天赦日である。問題は自分の心でそれを天赦日にもすりゃ、又悪日にもするわけである。
 問題は有難いという答えをもってするならば、すべてが天赦日である。全てがおかげの頂けれる心の状態となるのです。
 日々本当に許されての楽しい愉快な、日々でありたいと思うですね。
                            どうぞ。